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幕末の歴史

維新の風 周布政之助について  で表現しています

 

維新の風 周布政之助について

  「維新の風 周布政之助」を音楽で表現したいと思い、どんな人物かを調べました。 県立図書館の資料等によると、幕末に、長州藩の政治と外様でありながら東京湾等の護衛等の国事をもまかされて朝廷、幕府、他藩間との周旋(コーディネート)等をこなし、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝充等の若手の登用及び彼らの面倒を見た理想的な上司でもありました。 開国後を見据えて若手5人を英国へ密留学させる等命がけの行動力のある、想像をはるかにこえたスーパーリーダーであることがわかりました。この人のおかげで明治維新がやってきたといっても過言ではないかと思います。

周布政之助については、勝海舟が「維新前後の英傑といえば、まず長州の周布政之助が第一であろう」と語り、木戸孝允は「先輩周布政之助、今もし生きていれば明治政府のトップにたつ人でしょう。西郷、大久保と言えども、右にでる者ではない」という意味のコメントをしている  ⇒ 生前周布翁と面識のあった人が言っているので真実にひびくものである  by 兼行恵雄 前山口市長 (維新100周年記念イベント資料)

長井雅楽も周布政之助も共に秀れた政治指導者であったにも拘らず、いまだにその本格的研究がなされていないのが現状であります。by 周布政之助資料録 1979年山口県教育委員会 前教育長 井上謙治氏より

明倫館の育て親 ⇒明倫館の移設工事 (専任検使役) 現在の萩市
嘉永2年(1849)移設工事→書籍・器具 出納等政之助にまかされた。

財政改革
1852年(嘉永5年)、政務役に抜擢され、藩財政の立て直しに力を注いだ。年間予算の24倍の借金 9万銀 ⇒ 5年で3万銀に減らしている。 新産業を創生するための特別会計の充実等、
村田清風/政之助/木戸孝允で実施。

異例の出世 31歳で政務筆頭
嘉永六年六月(1853年)、米国の軍艦4隻が突然浦賀に来て、我が国に開港をもとめた。このことにより徳川三百年の太平の夢は破れ、天下はにわかに開港攘夷の論でさわがしくなった。この年の九月、政之助が政務役筆頭となった。これから政之助は責任ある政治舞台に立つことになったのである。 吉田松陰投獄 (松陰の身を案じて投獄)
政之助の藩政策について
保守(鎖国継続)派 ⇒ 幕府を無視したやり方は藩政を誤ると批判
吉田松陰を中心とした過激派 ⇒幕府の意を迎えても役に立たないと批判した。
政之助 ⇒  松陰の学を愛し、しばしば議論を交していた。
松陰⇒ 政之助が政務役となったとき、同志の藩政府が出来たことをよろこび、近時の一快事だと手記にしるしている。 安政の大獄 ⇒ 松陰は憤激措く、あたわず、過激の公卿、大原三位等と気脈を通じ、元兇、問部(まなべ)老中を要撃して天下の勤王の一番槍となろうと計画をした。これを政之助は仰天 松陰を諭し、勤王のことは諸において成算があるからと、みだりに暴動をおこすことを戒めた。松陰はこれを信ぜず、血盟の士十七名を得て京にのぼらせ事を起こそうとし・そしてこの旨政之助に提出し許可を得ようとした

 政之助は松陰等の暴挙をおそれて帰国を命じた。松陰は大いに怒り、盛んに政之助を攻撃、政務をしりぞくべきであるといった。政之助は、ここに至っては何等かの処分を加えねばならなくなったとして、政之助は松陰をその叔父玉木文之進の家に、しかし松陰はなお過激な言を吐いたので、野山の獄に投じた。松陰に附した罪名は「学術純ならず人心を動謡す」であった。 「この間松陰は松下村塾を興して人材育成をしている」  ⇒ 松陰は、安政の大獄に引っかかり斬首されてしまう1858年
 政之助は幕府に対して松陰の嫌疑を解く為の努力をしていたが、出来なかった。又、木戸孝允、久坂等に及ばないように対策をその都度とっている。 高杉の謹慎 (清国:上海へ視察に行かせている) ⇒松陰の一番弟子の高杉晋作「防長の恥辱。絶対敵を討つ!」と鼻息も荒い手紙をよこし、報復 (※1)を匂わせるこの男を、放っておくと何をしでかすかわからない。晋作の身を案じ政之助は奔走して、幕府派遣の上海視察団の中に潜り込ませ、とりあえず日本を離れさせてやります。そんな親心にも関わらず、高杉は上海からますます過激な男(※2)になって帰ってきます。  文久三年、高杉晋作は京都にいたが、長藩が朝廷と幕府の中に入って周旋を図っているのが気にくわず それより藩で兵をやしない、早急に討幕の軍を起すべきであると論じていた(後に奇兵隊の結成)。

 政之助はこれを聞いてそれは余りにも急激な論である。今長藩は官武の間を周旋して、幕府の勢力を除々にそいでゆき、時機をまって幕府に対することが必要であるとといた。高杉は京都にあって乱暴のことが多かったので、ついに藩から萩に帰って謹慎するように命ぜられた。
※1 報復
 斬首され埋葬されていたお骨を現在の松陰神社に改葬する時のことです。上野の忍川にかかる3つの橋のどれかを渡らなければならなく、その真中の橋が『御留橋』といい、将軍専用の橋でした。高杉晋作は御留橋をわたり始めたのです。それに焦った一行と警備をしていた役人。『この橋を渡ったものは打ち首にする決まりだ。』行く手をさえぎる役人に対して晋作は『ヤリを取り出して 下がれ!!勅命である殉国の霊がまかり通る、下がれ!!』と一喝 そして、堂々と橋を渡っていきました。 ⇒ 政之助は黙認して藩の経費で改葬しています。

※2 過激な男
政之助は幕府が募集した上海視察に藩の代表として晋作を人選、行かせている。 晋作が見たものは、老西門にある孔子廟(孔子像を追い出して英兵の大本営に使用⇒後に四カ国連合艦隊の3回目の談判会議で英国のキュパ総督に古事記を引用して説教をします)、発展している上海、繁華街「外灘:ワイタン」で華やかにふるまう欧米人に対してアヘン戦争で敗戦した悲惨な清国人の姿を見ています。

 黄河にかかっている外白渡橋(中国人のみお金を払う)。日本もこのように植民地化される危惧を抱いて帰国しています。 政之助を通じて視察報告をしています。 公明天皇の外国嫌いもこれらからきている  ⇒久坂等と一緒に英国公使館の焼き討ち事件を起こしている。更に英国公外交官の暗殺を土佐藩士にほのめかしますが山内容堂にチクられて若殿から厳重注意を受けます。下関海峡で四か国を相手に戦争を仕掛けたのもこういった背景があります。 ⇒ 晋作が、仮に上海に生まれていれば清国の植民地化を防ぐ戦いをしたかも知れない。

井上等の英国留学 ⇒ 前年度、欧州視察に行かせた杉孫七郎の報告に基づき 文久三年の春、政之助の画策で、井上馨、伊藤博文、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助等五人の青年を英国に留学させた。この頃、長州藩では汽船(晋作が買うてきた)を買い入れたので、その周旋に当った横浜の用達、伊豆倉の手代、佐藤貞次郎という者が京都によっていた。政之助は貞次郎を料理屋に招き「長州の青年数名を極秘密に英国にやって学問をさせたくそれは何れ攘夷の後が条約改正となる訳であるから、その節役に立てたいと考える。お身の義侠を見込んで心配を頼む、秘密を守ってこの事を周旋してもらいたい」と頼み込んだ。当時洋行は、幕府の許さないところで、藩においてもこの事が知れわたったら、容易ならない問題を起す程の大事であった。

 密航は横浜から外国船に乗りこむことになったが、その世話は、全部大村益次郎が当った。井上等は藩からもらった金は、横浜においてすでに使い果してしまったので。五人の為に大村は貞次郎に依頼して五千両の金を借り受け五人を出発させたのであった。 京都では攘夷の期限確定などと大騒動をしていたとき、ひそかに青年を洋行させた政之助の深謀はまことに先見の明のあったものである。政之助は死罪を覚悟の上、英国のマセソン商会(横浜)と交渉をしている。

山口へ藩庁(山口城)の移行と攘夷決行 ⇒ 萩の地は辺境で、有事に際して防長二州に指揮するには不便であるとし、また海に臨んでいるので防備上にも適当でないとして~藩庁を山口に移すこととした。そして政之助、兼重譲蔵が山口の地理を踏査し、藩庁は山口に移った。 文久三年五月十日は、さきに幕府が決定した攘夷の期限であったので、長州では下関においてこの日、海峡通行の外国船を砲撃した。その砲声は二十里をへだてた山口の地にもひびいたので、山口では外国船の来襲と大さわぎをしたが、政之助はこれこそ我が藩主が、天皇に報い給う所であると東の方を伏し拝み、祝盃をあげたので、人々もやっと安堵したということである。

高杉の獄舎訪問
 この頃政之助は公用で萩に行き、土屋矢之助の宅を訪問、進められるまま酒をすごした・政之助は先に高杉晋作が獄に入れられたのは、自分が高杉に命じて来島の進発を止めさせたから起きたことであるからと、気の毒でたまらなかった。そして何とかしてやろうと常に心がけていた。政之助は大酔のまま土屋の宅から馬に乗ると、そのまま野山獄に乗りつけた。勿論高杉に面会する気であったのであるが、獄舎の門が閉っていたので、馬上から刀をおいて門衛に開門させ、獄舎に乗りこんだ。「晋作、合点が行つたか、汝は平生から才を誇って人を軽んずるからこの如くになったのだ。その首、斬って冥土の土産にしようと思うたが、他日入用の事もあろうゆえ、持ち主に預けておく」といった。高杉は「身から出たさびであるから仕方がない、ただ此の如き不忠者を君公(くんこう)が未だ見捨てていないことを有難く存ずるのみである」と答えたので政之助は更に大声で、「よしよし、獄中に三年も居って読書し、心胆を錬れ、このような困苦に堪えることが出来なくては、防長の政治はすることは出来ない。よく学問をして少し人物になって出て来い。

  藩存亡の危機を救えるのは、お前以外に誰がおる」・・無言で涙を流す晋作を見届けた。 ⇒ 政之助は50日の謹慎処分

公家7人長州へ亡命 ⇒ 1863年薩摩・会津藩による政変で尊王攘夷派の7人が京から追放され井上馨宅に身を隠していた (三条実朝ら7人が長州を頼っての行動)

禁門の変(蛤御門の変) ⇒ 高杉晋作は野山獄、政之助と同論者である桂小五郎は京に居り、政之助は謹慎中、京都への進発論を止める者が一人もなくなったため、(実朝の意見等で3家老等が決断:後に切腹)久坂等は堺町門で来島等は蛤御門で討死し、真木等は天王山に退いて自刃して死んだ。この時は蛤御門の戦いが最もはげしかったので、世にこれを蛤御門の変という。⇒ 政之助は「あの時政庁にいたら進発させなかったが、1日違いでそれが、できなかった。」 謹慎が解けて、政之助は、遺書を抱えて堺町まで行って後始末のため周旋をしているが、既に天皇を狙ったものとして朝敵にもなってしまった。
 ⇒ 山口県立図書館内資料より

四カ国連合艦隊との戦争(長州のボロ負け) ⇒ 政之助と清水清八郎が岩国に滞在中、下関で外国との講和が成立し、政之助はその補佐として下関に直行している。「益次郎も同行――の資料もある。 政之助は、この時のことを交渉団とは、意見が合わなかった」と滞在先の吉富簡一氏に漏らしている。ここ数か月どうも政之助の様子がおかしいので萩から妻子を呼んで見張らしていた。
 とにかく困ったときの晋作頼りでと牢を出された高杉晋作と、英国から引き返してきた伊藤・井上コンビの策略で、長州から賠償金なしで戦後処理は済ませました。英国は彦島をほしがったが、高杉は、アヘン戦争に負けて、欧米の植民地のようになってしまった悲惨な中国の姿を見て受け入れなかった。(後に伊藤が述懐している)

井上馨の暴漢と政之助の自刃
  外国との談判を穏便にまとめたというのに、高杉・伊藤・井上の三人は売国奴(ばいこくど)と罵り(ののしり)、あなたが若い者を煽ったからよ、と、保守派・改革派双方から責められる立場になっちゃった政之助。⇒政之助は謹慎は解けていたが、登庁拒否 ⇒晋作は雲隠れ(命を狙われていることの行動)

 このような状況で「9月25日の会議」で井上馨が頑張って「倒幕について」俗論派等を説得 帰り道、俗論派の刺客に井上が襲われている「山口市内中園町」。 この事件は「山口市内の矢原の吉富家に宿泊」周布の耳に入っている。そして吉富簡一が井上馨の様子を伺いに行った隙に、26日早朝5時ごろ自刃しているが、このままでは「高杉、伊藤等にも刺客に狙われる」正義派へ政権を奪い返すための決行「生きて恥をさらすより、死んで花を咲かす:武士の考え方」かと推測される。
  遺書 ⇒ 「幕府が攻めてくればにらんで止めてやる、墓は近くの道のほとりに江戸に向けてたててくれ」の意味の遺書を残している。この周布の行動が明治維新につながっている。 後3か月生きていれば、大田絵堂、功山寺挙兵の戦いで政権を取り返しているので、明治になって、表舞台で活躍できたように思われる?

周布政之助の作曲について、音楽としては、描きにくい人でしたが、山口市内の亀山公園内毛利敬親銅像(そうせい殿さん)の前でウクレレとギターを弾いて旋律が浮かび、修正をしながら完成をいたしました。  作詞をされた牧野さんと山口市内の周布公園にある慰霊碑にて、政之助さんから、これでよいと聞こえた気がした。 
 又、後日、毛利岩国藩の流れを組む吉川さんと出会いがあって周布さんのお墓詣りにいきました。


 この周布「変名 麻田」さんの墓にだけ自然の、花が咲いています。 そして、曲を作ってから、菊のご紋と周布さんと思われる喜びのお顔が現れてきたのが不思議に思っています。
 慰霊碑は山口市周布町内周布公園にあります。 明治に建立(嗣子公平)、銘文は井上馨が書いて、毛利元昭公の筆による石碑となっている。

桂小五郎が周布政之助に贈った筆画 ⇒ 酒が過ぎると道理がわからない小人の眼になってしまう。酒をやめて君子の眼(天の眼)になってもらいたいとの意味を込められている。ちなみに桂は酒が飲めない人であった。 

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